ご存じ方も多いと思うが、同潤会アパート【地図】最後の1棟となった上野下アパートが今年5月遂に解体の時を迎えた。
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5/10、様子を見に窺ってみると、既に規制線が張られ、業者が入って大きな荷物を運んでいた。住民の退去はとうに完了していたようだ。
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塀越しに様子を眺めるしかなかったが、窓の開いた部屋があったのでカメラの望遠で覗いてみる。
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梁の形状が幾何学的で魅力的に映るが、梁と壁の間にパックリ隙間が開いており、老朽化の深刻さがかいま見られた。
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また、半身を乗り越えて庭をみてみる。
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青々と木々が茂る中、自分にとっては上野下アパートの象徴である井戸のポンプがまだ取り残されていた。
と、今回はここまでしか眺めることが出来なかったが、最期の勇姿を目に焼き付け、サヨナラが出来ただけでも良かったと思っている。



ここからは09年に撮影したアパートの様子を紹介したい。
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同潤会については詳しいサイトが沢山あるので各自調べていただきたいが、ザックリ説明しておくと、同潤会は関東大震災による復興計画として立ち上げられた財団法人で、防災の観点から日本で最初の鉄筋コンクリートアパートとして計画された。
近代化の象徴としてのモデル事業としてみられる傾向があったようで、大学教授や官僚・作家といった富裕層が多く住んだらしい。
上野下アパートは昭和4年完成。同潤会は昭和16年に解散しアパート建設は昭和9年で打ち止めとなっているから、中後期の建設となる。
24年前に初めて上野下を見たときは、他の同潤会アパートに比べ、頑丈な現役といった姿を留めていた。当時近くの鶯谷アパートも健在で、清砂通りはまだ堅牢な面持ちだったが、古石場などはかなり危うい風貌をしていた。
しかし4年前、久々に訪れた上野下はだいぶ老朽化しており、初訪問から20年という歳月を痛感させられた。
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下から見上げるとまだまだ圧倒的な存在感は健在と思わせる迫力がある。
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側面にはダストシュートらしきスリット状のものが窺える。
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下をみると案の定で、使われなくなって大分経つ様子。
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建物正面に向かって右側の棟の黒ずみ具合の圧迫感が相当なもの。
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手前に写っている庇部分が東側の入口部分。
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中の廊下の様子。
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階段の踊場。手摺のRの形状が外から差す日差しに浮かび上がる。
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階段を上り切ったところにある洗い場。
タンクから蛇口が出ていて、ここでちょっとした洗濯などをしたようだ。
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屋上は以前、万国旗はためくが如くに洗濯物が干されていたが、今は錆付いた物干し台が、虚しく青空に一線を引くのみだった。
この屋上の床はコンクリが大分ユルくなっており、一部ペコペコとたわむほどだ。
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隅には簡単な流しが設えてある。
嘗ては人が活き活きと当たり前の日常を過ごす場としての雰囲気が漂っていたが、確かに住人の姿はまま見受けられたものの、なにか廃墟度が増している気がした。

上野下アパートを後にすると、向かいには以前長屋が軒を連ねていた。この長屋の一つに嘗て林家彦六が住んでいた。
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彦六といえば八代目林家正蔵である。本来は昭和の爆笑王こと林家三平が八代目正蔵を襲名するはずだったが、彦六(当時は5代目蝶花楼馬楽)が一代限りの条件で海老名家から正蔵の名跡を借りたため、根岸の林家からここ上野下の長屋に正蔵の名が移った。
しかし三平が急逝してしまったため、馬楽は正蔵の名跡を根岸に戻し林家彦六となったが、終ぞ三平は正蔵を名乗ることはなかった。
三平の妻、海老名香葉子はこのことが相当ショックだったようで、悔恨の念からこぶ平の正蔵襲名が早まったという話は広く知られるところとなった。

嘗てアパートの住民が多数訪れただろう、真裏にある銭湯・寿湯も健在だったが【拙ブログ寿湯レポート参照】、その長屋のうち一棟だけ、アパート解体の日を迎えた今でもかろうじて残っている。住民の方がアパートを見つめておられたが、この長屋も出来る限り往時の姿を留めていてほしい。
アパート跡に新しい建物が出来た時、その新旧の対比が拝めることを願って。
【了】